パスカの呻き声が響き渡る、底冷えのする地下通路。
その中心部で生活するアベル、アラギ、そしてレア。
今はちょうど梅雨時で、温度差は激しい。
【夏風邪注意報】
「ガホッ!おい、早く着替え持って来いよ!」
男の怒鳴り声が通路中にこだまする。
「はい、ただいま」
怒声に応える声は対照的に静かに響く。
その声の主である少女は、洗い立ての寝巻をアラギの元へと運んでいく。
そして誰に言われるでもなく額のタオルを取り換える。
「……なかなか下がりませんね」
すっかり熱くなってしまったタオルを地下の冷たい水で冷やしながら、少女――レアは呟いた。
「アベル様はご無事でしょうか」
窓ガラスを大粒の水滴が伝っている。
これでも随分弱くなってきたところだ。
「今日も雨かぁ……」
カインは頬を膨らませて、曇り空をにらんだ。
ここ数日、彼は青空を拝んではいない。
毎年恒例の梅雨というやつだ。
「そんな顔をしたって雨が止むわけでもないだろ?」
ミルクを飲みほしたエクサルはお代わりをねだろうとダリアの方を向いた。
そのダリアはエクサルを無視して食器を拭いている。
他の面々は情報収集に出かけたり、建物の中でおしゃべりをしたりと色々だ。
特にザイオンとルカは雨だというのに毎日のごとく外へ出かけている。
一刻も早くパスカのペインリングを取り戻したいという気持ちがカインにもひしひしと伝わってくる。
今日も朝食後、すぐに出発してしまった。
「……マティア」
キボートスで暮らしていた頃は、毎年この時期になるとカインは風邪をひいていた。
そのカインをいつも優しく看病してくれたのはマティアだ。
カインを心配するあまり各種調味料の量がおかしくなったりしてかえって苦しめることもあったが、今はその苦い思い出さえ懐かしい。
当たり前にあったはずの出来事がこれほどあっさりと崩れてしまうとは考えもしなかった。
――マティアを助け出したら、今度こそ守り切るんだ!
窓を伝う水滴を眺めながら、カインは強く思った。
と、その時だった。
窓の外を黒羽の少年がふらふらしながら歩いているのが見えた。
しっかりしているのはすべてを憎むような瞳のみ。
他はすべて通常の彼ではない。
しばらくそれを眺めていたカインだが、倒れる彼を見るとさすがに黙ってはいられない。
カインは乱暴にドアを開け、彼のもとに駆け寄った。
「アベル?!」
雨のしずくが彼の銀色の髪を濡らしていた。
服は水を吸って肌に張り付いている。
全体的に濡れているため、当たり前といえば当たり前だが、身体は冷え切っていた。
カインは自分に向けられる殺意も気にせずに、アベルをダリアビアーに運ぼうと彼の腕を担いだ。
二、三歩進んだだけなのに、アベルの瞳は虚ろになり、やがて意識を手放した。
温かいスープの匂いがする。
決して口には出さないが、アベルはこのスープを気に入っている。
――お目覚めですか?もう少しですから、少々お待ちください。
鍋の中身を確認しながら、視界のレアは柔らかく笑った。
だが、やがて彼女の姿がぼやけてくる。
「レア……?」
――どうかしましたか?
今にも消えそうなレアはきょとんとしている。
鍋の中のスープが音を立てて温まっていく。
――おいアベル。早く治せよ。
アラギが不機嫌そうに顔をゆがめて厚手の毛布を投げてよこした。
途端に身体が熱を帯びた。
――……アベル様……。
レアの声が聞こえた気がした。
目の前には自分自身の顔があった。
いや、正確に言えば大きな瞳が自分の顔を映していた。
「めがさめた?」
大きな瞳をパチクリさせながら、少女――リリスは無邪気に笑った。
少女の隣では同年代に見える少年が睨みを利かせている。
「……」
いつの間に自分はこんなところに来たのだろう。
少し前まで新たなインセストを探していたはずなのに。
「……はい。飲みなよ」
ドアが開くと同時にカインの声が聞こえた。
声には複雑な感情が含まれている。
彼の手にはスープ皿があった。
「……何のつもりだ?」
目が覚めて間がないため得た情報は少なかったが、確実に解ることが一つある。
”カインは自分に危害を加えることはない”
それはカインのペインキラーであるアベルにははっきりと解る。
だが腑に落ちないのは彼が自分を助けた理由だ。
カインから見ればアベルは見捨てこそして助けることなどない。
「ボクは倒れている人を放ってなんておけないよ」
カインはきっぱりと言い放った。
「……相変わらずお人よしなことだな。でもオレはいつまでもこんなところにいるわけにはいかない」
腕に力を入れ起き上がろうとするも、あっさり力が抜けてしまう。
アベルは苦々しく顔をゆがめた。
「すごい熱なんだ。大人しく寝てた方がいいよ」
「お前もマティアの言い方が移ったな」
いつもと変わらないカインの顔にマティアの顔が浮かび上がって見えてイライラする。
カインが手にスープを持っているのも癇に障った。
いつの間にか慣れてしまっているレアの料理の味が、今は無性に懐かしかった。
きっとこれは熱のせいだ。
「アラギ様、やはり遅すぎます」
珍しくレアの語気が荒い。
「……あまりデカい声を出すな。頭に響く。アイツだってただのガキじゃねーんだ。しばらく待てば戻るだろ」
頭を押さえながら、アラギは面倒くさそうに言った。
「何かあっては遅いのです。わたし一人でも探しに行きます」
硬い表情でバトンを握りしめると、レアは幽葬の地下通路の出口へと向かった。
――どうかご無事で、アベル様。
祈りながら彼女は歩いた。
パスカが徘徊していることを十分に知りながらも、彼女は全く怯えることはなかった。
彼女にとってはアベルの身の安全が第一だった。
「美味しいよ、このスープ!」
カインは満面の笑みで空になったスープ皿をシリアに差し出した。
「カインさんにそう言っていただけて、わたしも嬉しいです」
スープ皿を受け取りながらシリアは微笑んだ。
「うん、リリスもシリアお姉ちゃんのお料理大好き!なんかね、とってもあったかい味がするの」
リリスは不器用ながらもシリアの作ったスープを味わっている。
今は夕食の時間。
ダリアビアーでは大所帯の食事が始まっていた。
「そう言えばあのガキは?アラギの事、なんかしゃべった?」
肉を口元に運びながら、ルカが問いかける。
あれからアベルは何も言わない。
見るからに不調だというのに、一口もスープに口をつけていない。
「なんにも。ただ黙り込んだままだよ」
シリアがスープのお代わりをよそっている間、カインはフォークに刺した唐揚げを口に放り込んだ。
外は街灯の灯で満たされていた。
アベルは光の洪水を眺めていた。
――情けない、みっともない。
彼の頭の中ではその単語がぐるぐる回っていた。
こんなところをアラギに見られたら笑われるだろう。
百歩譲ってアラギに見られたとしても、レアには絶対見られたくない。
恥ずかしいし……それに悔しい。
レアにだけは弱ったところを見られたくない。
「こんなところにいたのですね」
不意に聞き覚えのある声が窓の方から聞こえた。
彼女であって欲しくない、頼むから自分の錯覚であってくれ。
その切なる思いは実らなかった。
静かに窓が開く音が響き、窓ガラスに手の影が映った。
それに続いて風に揺れる髪の影が、横たわるアベルの体に重なる。
「……なんだ」
眉間にしわが寄っているのは自分でも感じた。
一番見られたくない姿をよりにもよって一番見られたくないレアに見られてしまった。
「おかえりがあまりにも遅かったので、お迎えに上がりました」
この言葉がアベルをますます不機嫌にさせた。
「オレは子供じゃない。それにこんな事誰が頼んだ?」
「わたしは貴方に頼まれたのではありません。わたしの作ったスープを飲んでいただきたくて」
レアは簡素な容器に入ったスープをアベルに手渡した。
器越しにあたたかい感覚を感じる。
そっと一口、喉に流し込むと、素朴ながらも温かい味が口の中に広がっていく。
無言でアベルは立ち上がった。
「アベル様……?」
レアが怪訝そうな顔をする。
「帰るぞ。こんなところになんかいたくない」
力強く漆黒の翼を広げる。
いつもの強気な表情に戻っている。
しばらくきょとんとしていたレアだが、そっと頷きアベルの差し出す手を取った。
明るい満月に一人の悪魔と少女の影が一瞬だけ映った。
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2013年 6月24日 莊野りず
前のサイトでアップしていたものを手直ししたものです。
内容はあまり変わっていません。
珍しくカインサイドも結構ありますね。
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