追憶 (リン→シキ)
リンがはじめて星を見たのは六歳になってからだった。それは冬の事で、吐く息が真っ白くて、それがどこか楽しかった。
「きれいだね! おにいちゃん!」
リンは母親に着けさせられていたイヤーマフをあっさり外した。耳が痒い。
兄は黙って優しく頭を撫でてくれた。表情も、いつもより優しかったと思う。
「お前は星を見るのがはじめてだからな。父さんに一度は見せてやれと言われていた」
父は美しい容姿の母親の面影をそのまま受けついだ弟の事を可愛がってくれていた、と思う。
当時のリンにはそれは当たり前の事で、養子縁組に出された子供がどんな目に遭っているのかも知らなかった。
母親にも当然のように愛され、可愛がられてきた。
もちろんシキも可愛がっているのだろうが、いかんせん年が離れすぎている。すでに変声期を終え、声が低くなった兄はリンとは正反対に自立しているように見えたし、実際にそうだったのだろう。
兄はたまにしかリンに構ってくれなかったが、いつもリンには優しかった。完璧な兄だと自慢だった。
リンの母親はシキの母が亡くなった後に来た後妻だった。きっと、自分が夫に見放されしまったら、と考えるとじっとしてはいられなかったのだろう。彼女のリンへ愛情も教育も度を越していた。
彼女はリンを兄のような非の打ちどころのない子供にしようと必死だったに違いない。
そうでなければリンの子供部屋に転がっている、山のような知育玩具の説明がつかない。
母親はこんな時期になるまでリンを夜更かしさせたことはなかった。
きっと兄とは距離を置いていたかっだろう。
そう、リンの母は彼のであるシキの事をあまりよく思っていなかったらしい。
きっと兄が務めることになっていた仕事に対して嫌な感情を持っていたのだろう。
前妻の息子であるシキとは極力顔を合わさないようにしていたように思う。
しかし、その日にはシキとリンの父が遠征から帰って家にいた。土産はシキへは天体望遠鏡、リンには星の写真集が数冊。
子育てには無関心だった父だが、兄のシキが訓練校を卒業する年頃になってきたので、慌てるように土産を買ってきたのだと思う。
それでも、シキはそれを見ても眉ひとつ動かさなかった。星の本一冊で大喜びのリンとはこれまた対照的だった。 きっとその時に星を見せてやれとでも言われたのだろう。兄は比較的父の言うことには従順だった。
「しゃしんで見るのとはぜんぜんちがう! もっととおくまで見えるかな?」
リンははじめて見る星空に夢中だった。
太陽の代わりとばかりに大きな顔をしている月よりも、星の方が好みだった。あの儚い感じがリンの心をつかんで離さない。
「……そんなに気に入ったのか? もう二時間だぞ。よく飽きないな」
兄はある意味感心するという呆れ顔だった。
「望遠鏡でも使うか? 俺はいらんからお前にやる」
父の土産も、兄にとっては何でもないものの様で、そんな兄が格好良いと思っていた。
「……いいの? とおくまで見える?」
リンが恐る恐る尋ねると、兄は無表情で頷いた。物欲のない人なのだと、その時のリンは思った。
「おにいちゃんだいすき! おにいちゃんはリンのじまんだよ!」
そう言って思わず兄に抱き付く。兄は優しく頭を撫で、微笑んだ。――気がした。
中庭で鳥が鳴いている。そのさえずりに起こされたリンはもそもそとベッドの中から目覚まし時計に手を伸ばす。 目覚ましとしての機能は今も使っていない。学校をサボるようになってからはずっとこうだ。
「……もう昼か。よく寝たのかどうなのか、ってとこか」
リンは独り言を呟くと、ゆっくりとベッドから出た。身体の節々が痛い。寝すぎたかと軽く伸びをする。
そして無難なベージュの部屋着に着替える。これは幼い頃からの習慣で、リンはパジャマのままで朝食を食べたことはない。
「今日も学校は始まってるか。まぁ行く気はないんだけどな」
リンの部屋には何不自由のない家具がそろっている。立派なベッド、机、本棚、広いクローゼットなど、挙げればきりのない。
しかしリンはこの部屋を自分の居場所だと思えないでいる。
大して好きでもない勉強の道具や興味のないことに関する本の数々、きちんとアイロンのかかった学校の制服。見ているだけで息が詰まる。
不自由のない生活というのは逆に不自由なものだ。リンはそれを実感する。
この部屋にも家にも、リンは自身の居場所を見いだせないでいる。
久しぶりに見た夢の中の兄は、幼い頃から憧れ続けてきた兄の姿のままで懐かしくなる。
母親はあまりシキと仲良くすることをよく思ってはいなかった。
「兄貴の夢なんて久しぶりに見たな。……元気かな……」
あの日の兄と同じ年頃にはなったが、同じことが出来るようになったとは思っていない。
シキが今のリンの年頃には既に将来有望な若者として知られていた。今のリンは何の特技もない。強いて言えば運動神経、それも軽い身のこなしを生かしたスピードくらいしか取り柄がない。
朝から落ち込みそうになりながらも、リンは部屋から出た。するとすかさずメイドがリンの元に寄ってくる。
「リン様、お目覚めですか? 朝食はダイニングにございます」
この家に最も長く務めているメイドがそう述べた。
「今日は何?」
媚を売るような動きの彼女の名前はもう忘れた。仏頂面を崩さずに朝食のメニューを訊く。
「今朝はオムライスですね。なんでしたら、文字もお書きしますよ」
メイドカフェの真似のつもりだろうが、リンにはそんなものはいらない。
「いいよ。母さんは?」
「お母様はお友達とお茶に出かけられました」
「ふーん」
彼女はリンが勉学に対してやる気がないと解ると、実子であっても教育に対する情熱をなくした。
彼女が必要なのはリンではなく、『自分に従順で優秀な息子』なのだ。よって今のリンは彼女には不要なのだ。
リンはメイドに軽く礼を言うと、長い廊下を歩き階段を降りた。
オムライスはまあまあの味だった。食べ盛りのリンには量が足りないが、追加して作ってもらう気にもなれない。 あの兄ならすでに自立しているし、想像出来ないが美味しいものを作りそうな気もする。
「……そうだ! 兄貴に会いに行こう!」
夢にシキが出てきたのも偶然ではないはずだ。起きたてでまだ覚醒しきっていない脳が、一気にそんな事を思わせた。
しかし、突然リンがそんなことを思い立っても、周りは反対するだろう。だったらこっそり出ていけばいい。なぜ今までこんな簡単な事を思い浮かばなかったのだろう。
「そうだよ。兄貴に頼んで一緒に住ませてもらおう!」
そうすればこの煩わしい生活からも解放される。もう跡取りとしての教育を受けるのはうんざりだ。メイドの作る味気ない飯も飽きてきたところだ。
「そうと決まれば善は急げだ!」
リンは慌てて自分の部屋に戻ると、ウォークインクローゼットの中から大きめのリュックサックを探りだした。しばらくの生活には困らないだけの蓄えは用意しておくべきだ。
洗面道具、着替え、雑貨や食料、そして水分。それらを詰め込んだらあっという間にリュックサックは満杯になった。他にも金や貴重品も持って行く必要がある。
苦肉の策として、以前買ったウエストバッグを見つけだし、その中に貴重品類を詰め込んだ。荷物はそれだけだった。
部屋には幼い頃にシキから譲り受けた天体望遠鏡。その他にも天球犠や星の写真集など、自分で買ったお気に入りのものがあったが、それはさすがに持っていけない。
「お前らも一緒に連れていきたいけど、駄目なんだ」
まるで物に人格があるかのように謝ると、リンは部屋にある全身鏡で今の服装を見た。
無難なベージュの上下はどう見ても部屋着にすぎない。この格好で外に出るなど論外だ。かと言ってクローゼットの中の服のほとんどは母親の好みのものばかりだった。そんなものは着たくない。
ふと近くに赤と黒が特徴的な服を見つけた。確かこれは父が買ってきたものだ。リンとしてもこの服は結構気に入っている。
「決めた! これ着てこう!」
これと決めたら迷わないのがリンの長所である。早速ベージュの普段着からその服に着替える。確か父がこの服を買ってきたのは三年ほど前だが、悲しいほどにぴったりだった。
身長も手足の長さも、全く成長していない。本当に成長期なのかと訝しく思う。
「兄貴は俺くらいの時にはもっとデカかったよな……」
兄弟でも成長の差があることにショックを受けつつも、これで支度は整った。あとは家中にいるメイドたちに見つからないように出ていけばいい。
「兄貴、今会いに行くから!」
リュックを背負い、腰にはウエストバッグを身に着けたリンは家出少年そのものだ。いや、本当に家出しようとしているのだから間違ってはいない。
部屋を出たところでちょうどメイドとニアミスしそうになったが、素早く隠れて事なきを得た。
「ふー危ない危ない。見つかったら一巻の終わりだもんな」
もし家出しようとしていることが母親にバレたら何を言われるか解ったものではない。泣き落とされてそのままこの家に縛り付けられて終わりだ。
「絶対に出て行ってやる!」
階段を降りたところでもメイドが話し込んでいて、その話声で回避することが出来た。
一体この家には何人メイドがいるのだろう。きっと家事をしたくない母親が無節操に雇ったに違いない。
ここでリンは大事なことに気づく。
「……そうだ。俺、兄貴の居場所知らないんだった」
あの兄は何のしがらみもなく家を出てしまっていた。リンの母親は何も言わなかったが、父には何か言っていたはずだ。
父の書斎に行けば兄の消息がつかめるかもしれない。
そっと廊下を進み、右の扉を開いた。そこは父の書斎で、リンの知らない言語で書かれた書物が数多くあった。その中の一冊を開いてみるが、全く理解できそうもない。
「父さんも物好きだよな。こんなの全然読めないし」
書斎には本棚が六つと立派な造りの机があった。机の一番上の段には鍵がかかっていて開けられそうもない。机の上には幼い頃のシキとリンが仲良く笑っている写真があった。
「うっわ、懐かしー。父さんも兄貴に会いたいのかな? あれ? ……これって住所、だよな?」
リンが見つけたのはフォトフレームの隅に挟まれていた小さな紙切れだった。何度も折っているらしく、広げてみると紙のしわがひどい。黄色く変色しているので、これは家を出たばかりの住処なのだろう。
「とりあえず手がかりゲットー、ってとこかな。他に何かないかなー?」
一通り書斎を眺めても有益そうなものは見つからなかった。こうなったら諦めるしかない。
もうこの部屋に用がないと解ると、今度はメイドに見つからないよう、音を立てずに書斎から出た。
玄関先まで見つからずに済んだ。その広い玄関にはリンのものと母親のものの靴がきちんと整頓されている。父のものは仕舞われている。彼は今、どこかの組織に雇われていると言っていた。
リンの靴はほとんどがブーツで、厚底のものばかりだった。
小さい体格を少しばかり気にしているので、厚底ばかりを買ってしまう。もう少しでいいから背が高かったらなぁ、と思わずにはいられない。
そのブーツの中に赤いものがあった。今リンが身に着けている服と合うようなデザインのブーツだ。
ベルトが巻き付いたデザインが結構好みだ。服とも合うし、厚底だしという理由で、これを履いていくことにする。
「じゃあな」
リンはそれだけ言って、生まれ育った我が家を後にした。二度と戻ってくるつもりもないし、後ろを振り返る気にもならない。
それだけリンにとってこの家は苦痛でしかなかった。
家を出てから二時間、リンは未だに街にたどり着けていない。最初の三十分くらいは実家の土地をひたすら歩いた。
外出の時はいつも車だったので、自分の家の敷地がここまで広いとは思ってもみなかった。
一体父はどんな仕事をしているのだろうか。その辺の話は誰もが口をつぐんでいたのでリンが知らないのも無理はなかった。
「くっそ。どんだけ街から遠いんだよ!」
流石に悪態もつきたくなってくる。街の影も形も見えてはこない。昼頃に家を出たというのにもう空の色が変わっている。
こんなはずではなかった。リンの想像では、すでに兄と感動の再会を果たし、一緒にカフェにでも入って他愛もない会話を楽しんでいるはずだった。
己の見通しの甘さを痛感させられる。
「兄貴」
父の書斎から持ってきた幼い頃の写真を眺める。この頃から兄は無表情で、どこかつまらなそうだった。
それでも、優しかったはずだ。あの時リンの頭を撫でてくれた手のぬくもりは今でも覚えている。
リンはこの辺で休憩を取ることにした。ここまで家と町が離れていたことは想定外だったが、幸い水もソリドも持っている。
ソリドは最近ハマった焼き肉味だ。幼い頃は苦手だったこってりした肉の味が美味しく感じられるようになった。これも大人の味覚になったということだろうか。
「焼き肉味うめえ……」
兄もソリドを食べたりしているのだろうか。その光景は想像できない。一緒に食事をとっていた頃の事などもう記憶に残っていない。
ソリドを二つ食べ終えると、リンは再び街に向かって歩き始める。一番近くの街はこれからどのくらいで着くだろうか。
足が棒のようになるという感覚を実際に感じながら、リンは一歩一歩進む。夜までに着ければ御の字だ。
あれから更に二時間歩き通しだった。もう疲労は限界で、すぐにでも横になりたい。
リンはもはや意地で歩いている。やがて灯りが見えてきた。
「着いた、のか?」
リンがいるのは小高い丘の上で、そこからは小さな街が一望できた。全体的に淀んだ空気で、廃墟らしき建物も多いが、確かに人影がある。
「着いたんだ……。予想より暗いけど、確かに街……だよな?」
街に着いた途端、リンの張りつめていた気が一気に切れた。どうやら今日は野宿はしなくて済みそうだ。
リンは早速丘の上から街へと降りた。その街の異様な暗さが気になる。
「何なんだこの街。確かに人はいるみたいだけど……」
リンがリュックサックを掴む手に力が入る。どうやらここはいつもリン達家族が出かけているようなところではないらしい。
廃ビルの壁にはスプレー缶で書いたものらしき落書きや意味の解らない単語が乱暴に書かれている。
そこにはブラスターの文字もあった。リンにはそれが何のことなのかさっぱり解らない。
「なんだこれ? ブラスター?」
意味が解らずに立ちすくんでいると、そばの裏路地で歓声が響いた。
「何? 何やってんの?」
興味を惹かれたリンはすかさず裏路地へと急いだ。歓声が上がるということは何か楽しい催しがあるに違いない。期待を込めて飛びこむ。
「うらあぁぁぁ!」
リンの耳に飛び込んできたのは野太い男のかけ声だった。もう一人が頬を押さえて立ち上がる。
その指が挑発するようにゆっくり動く。それに応えるように、最初に叫んだ男が拳を振るう。
「うおぉぉぉぉ!」
その場にいる若者たちは歓声を上げてどちらかを応援している。リンにはただの殴り合いにしか見えないが、中には馬券のようなものを手にしている若者もいる。
すぐにそれは勝敗の賭けと悟る。この殴り合いの意味が解らないリンは、周囲の歳の近そうな若者に声をかける。
「なあ、これってただの喧嘩じゃないんだろ?」
声をかけられた男は一瞬きょとんとした。この場にブラスターの意味も解らない素人がいるなんて普通は思わない。
「ああ。ブラスターだよ。殴り合いの喧嘩ってわけじゃない。試合なんだよ。まぁ、一種のスポーツみたいなものかな?」
説明が難しいとばかりに、彼は困った顔をした。
「……へぇ。面白そうじゃん。俺も参加できんの?」
この若者、よく見たら顔立ちが整っている。黒髪と程よくついた筋肉がよりいい男に見せている気がする。その彼は一瞬きょとんとした。
「……ごめん。俺、君の事女子かと思ったよ」
心底悪そうに謝罪する彼には誠意が感じられる。
「いや、別に。そんなことはしょっちゅうだし、今更気にしない。実際、俺も女顔だとは思うし」
そんな事を話している間に、試合は終わっていた。賭けに参加していたものは喜んだり悲しんだりと両極端だ。
その中に髪を派手なオレンジに染めた若者が混ざっていた。
「トモユキ」
リンと話していた男が親しげに名を呼ぶ。トモユキと呼ばれた男はむしゃくしゃしたように券を握りつぶしていた。
「こんなところにいたのか、カズイ。ん? そっちのちっこいのは?」
賭けで負けてむしゃくしゃしているのがよく解った。リンは『ちっこいの』と言われて黙っているような性格ではない。
「誰が、何だって?」
リンはトモユキという男を睨みつけた。カズイと呼ばれた彼のようなタイプならまだしも、こんなちゃらちゃらした奴に舐められるわけにはいかない。
相手もただ睨まれているばかりではなく、睨み返してきた。
互いに譲らないので、カズイが二人を引き剥がした。
「まあまあ二人とも。お前、名前は? いきなりブラスターに参加したいなんて、度胸があるんだな」
そう言われると悪い気はしない。我ながら単純だ。ここは素直に名乗ろうと決めた。
「俺はリン。ちょっとワケアリなんだけど、この試合の事教えてくれてありがと」
「俺はカズイ。ブラスターはたまに参加する程度だけど、観戦するのは好きなんだ。それとこっちはトモユキ。誤解されやすいけど悪い奴じゃないんだ」
トモユキはこの紹介に気を悪くしたのか、フンと鼻を鳴らした。
「カズイくらい強い奴が、こんな弱そうなチビとつるんでもなんもいいことねーだろ? 次の試合が始まる。行こうぜ」
どうもリンとトモユキは性格的に合わないらしい。リンは女扱いされるのは嫌う。小さくても男だという誇りがあるし、そこいらの奴に腕っぷしで負けるつもりはない。
「……じゃあ、俺と勝負しろよ。ブラスターで」
カズイは優しいからいいが、このトモユキという男にチビ扱いされたのは気に入らない。
徹底的に懲らしめてやりたい。そんな気持ちで言ったが、トモユキは本気と受け取らない。
「冗談だろ? 女みたいに細い身体で何が出来るってんだよ」
明らかな嘲笑だった。学校にもこういう手合いはいた。
「……ふーん。お前、俺に負けんのが怖いんだろ?」
リンは好戦的に挑発した。この男は頭に血が上りやすいタイプと見た。反応は予想通り、あっさり乗った。
「何だと? ……いいじゃねーか。俺とお前、ブラスター個人戦で勝負だ!」
「おい、やめろよ。素人相手に……」
カズイが止めに入ったが、時すでに遅し。リンとトモユキは審判に次の試合に出場すると宣言しに行った。
「リンは意外と頭に血が上りやすいんだな」
カズイはしみじみと呟いた。
次の試合がリンとトモユキの戦いになる。
リンは武器になるようなものはナイフくらいしか持っていない。それも実家から持ってきたもので、とてもではないが使う気にはなれない。
このブラスターというのは素手での喧嘩がメインらしい。だったらリンにも勝ち目はある。
「逃げよう、とか考えてねぇよな?」
トモユキはねちっこい笑い方をした。どう考えてもリンに揺さぶりをかけている。
そんな事に気づかないリンではない。伊達に兄に憧れ続けていたわけではないのだ。
「そっちこそ、逃げるんなら今のうちだぞ?」
リンが好戦的な笑みで応じると、『上等だ』とばかりに向こうも笑い返す。
審判が試合開始の合図を出す。
それと同時に、リンはトモユキの懐へと飛び込んだ。いきなりの先制攻撃に、トモユキは面食らっている。
「オレのスピードについてこれる?」
リンはまるで猫のように素早く動き回る。そしてトモユキの身体の急所を狙って蹴りを入れていく。
「このっ! 調子に乗ってんじゃねぇよ!」
トモユキはリンのスピードに追いつこうと必死だが、体格があまりにも違いすぎて、そう上手くはいかない。
トモユキが拳を振るうよりも早く、リンはトモユキの急所という急所に蹴りを入れていく。
「もっとだよ! こんなんじゃ刺激が足りない!」
リンは熱に浮かされたように夢中でトモユキに攻撃をした。気がついた時には審判とカズイに羽交い絞めにされていた。
そこから先の記憶はない。ただ漠然と自分は負けていないという事実のみを感じた。
「……ン! リン!」
カズイの声が耳元で聞こえて、リンは目を瞬く。気を失っていたようで、カズイが心配そうな眼差しを向けている。何やら穏やかではない空気だ。
「そうだ、アイツは? トモユキは?」
意識が飛ぶ直前まで戦っていたトモユキの姿が見えない。カズイは少し複雑な顔をした。
「……覚えていないのか? トモユキはリンがボコボコにして、そのまま怪我の手当てを受けてる。覚えていないのか?」
「俺が……?」
全く覚えがないわけではない。あの時、確かにリンは戦いを楽しんでいた。それを否定する気はない。
トモユキに蹴りを入れていくたびに心が興奮して止まらなかった。学校でも似たようなことをして、教師に叱られた事もあった。
その原因をリンは全く知らない。
「で、トモユキは? 重傷なのか? 俺が、俺は、止められなかった」
カズイの顔にはトモユキを心配する真摯な色があった。それは心から繋がっている者同士でしか持てない、信頼という絆。リンが密かに欲していたものだった。
「トモユキの怪我は大したことはない。アイツは頑丈だし。第一、喧嘩を売ったのもトモユキだしな。リンがそんなに気に病むことはないさ」
カズイはそう言ってくれたが、リンは自分の中の見えない獣が恐ろしくなってきた。これ以上関わったら、この優しいカズイまで巻き込んでしまうかもしれない。
「……俺、家に帰る」
それがリンに出来る最大の償いだと思った。しかしカズイはリンの手を離さない。リンはその温かい手をじっと見つめる。
「……なんで?」
「ここエリアゴーストは強い奴がほとんどいなくて、廃れていく一方だった。リンは強い。武器なしであれだけやれるんだから、相当なものだ。だから、俺たちとチームを組まないか?」
カズイの提案は意外なものだった。なんでも、ここエリアゴーストは孤児や不良少年たちの掃き溜めのようなところだったらしい。
成程、あの丘から眺めた時の街全体の頽廃した空気も頷ける。
「個人戦でもチーム戦でも、俺たちエリアゴーストの連中は舐められてばかりなんだ。リンが入ってくれたらとても助かる。……トモユキもなんだかんだ言ってリンの事を認めてるし」
これは本当の事だ、きっと。実家でくすぶっていたリンの気持ちが高まる。
ここにいれば気の合う仲間たちと仲良くやれる。
――それなら別に、兄貴にこだわらなくてもいいじゃないか。
昔から何でも出来る兄は自慢と同時にリンにとてつもなく大きなプレッシャーを与えていた。
それは周囲の期待をも飲み込んで、大きなコンプレックスとなっていた。
それでも、ここで一緒にチームを組むことには何か大きな意味があるのではないかと思えた。
「……俺でいいんなら」
リンがカズイの反応を窺いながら返事をすると、近くの救護テントからトモユキが顔を出した。
「あっ、テメー覚えてろよ!」
トモユキは鳩尾を押さえたまま、リンを睨みつける。そこでカズイが口を挟む。
「おいトモユキ。リンは俺たちのヘッドになるんだ。口の利き方には気をつけろよ」
茶化して言ったつもりらしいが、リンもトモユキもとてもじゃないがそんな気分にはなれない。
「……とりあえず、一時休戦だ。よろしくな、トモユキ」
リンが下出に出てそう言っても、トモユキはリンの顔をまともに見ようとしない。
「オレはお前がヘッドなんて……」
トモユキがリンの事を悪く言いそうになると、カズイが絶妙なタイミングで話に割り込んだ。
「チーム名は皆で決めようと思ってる。きっとエリアゴースト一のチームになるぞ」
カズイの柔らかな微笑みでその場は納められた。
この後、ペスカ・コシカと名乗り、他のチームから最恐と恐れられるようになるのは、これから一年後の話になる。
その頃にはエリアゴーストのコートの名を知らぬ者は田舎者か一般人だけ。
雄猫の名を背負うリンは今までのどの時よりも輝いていた。
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2014年5月4日(同人誌発行)
2015年 8月30日 サイト再録
散々手垢のついたネタながらも、どうしても書きたくて書いてみたモノです。
やっぱり無理して書いてもいい事ないよね、という反省の話です。
一年以上過ぎてるので時効という事で、サイトにて再録です。
Pixivには載せる予定はありません。