因縁の終わり

因縁の終わり



「!?」

 誰かに呼び止められたような気がして、アキラは前へと踏み出した脚の動きを止めた。数歩先を歩く源泉がハンドライトでこちらを照らす。暗闇に慣れた目には、その光りは眩しすぎる。

「アキラ?」

 怪訝そうにこちらを見る源泉に、いつも通りに「なんでもない」と返す。しかし、彼も伊達に情報屋など名乗っていない。すぐにいつもの調子ではない事に感づいた様子で眉間に皺を寄せた。煙草を探しているようだが、どこかに落としたらしく、定位置をまさぐっていたが舌打ちをした。

「大丈夫だ」

「……」

 源泉が言っても、光に照らされるアキラの顔色は優れない。何しろ相手が相手だ。無敗の王であるイル・レ。源泉はその正体を知らないが、様子から見てアキラとリンは知っているらしい。源泉にも心当たりはあるが、断定するには些か早計な情報しかない。ゆえに『解らない』。

「リンと約束したのは、他でもないお前さん自身だろ?」

「……」

 源泉の言葉は正論だ。約束したのは他でもない自分自身だ。先に「信じろ」と言ったのも自分、「裏切ったら殺していい」と言ったのも自分。ここで今更迷うような、そんな軽い『約束』ではない。……あれだけ信じることに対して臆病になり、逃げていたリンを励ましたのは他でもない自分だ。

 ――解っている。解ってはいるんだ。それでも……。

 イル・レの正体を知るからこそ、リンが心配でならない。たかがBl@ster個人戦、しかも小さな地域の優勝者であるだけの自分と同格レベルのリンが、圧倒的な強者であるカリスマ――シキに勝てる見込みなど、冷静になればないとしか思えない。なのに、リンははっきり言い切った。迷いのない口調で。

『俺、アイツ倒して、必ずここから出るからさ。だから……戻ってきても、いい?』

 それはリンなりの信頼に応えようという気持ち、決意の証、そして少しの甘えだったのだと思う。そんなリンだからこそ、帰ってきてくれると信じた。

「行こう。日興連はこの先だろ?」

「そうだ」

 源泉はやっといつもの食えない笑みを浮かべた。



 既にトシマに集う若者たちは人影すら見えなくなっていた。あれだけ街中にたむろしていた者たちの姿がなくなると、改めてこのトウキョウには多くの者が集っていたのだと思う。がらんどうのトシマはまるで箱庭のようだ。……しかし今のリンにはそんな事をじっくりと考えている余裕などなかった。

 凛とした、とでも形容するのだろうか。鋼のぶつかり合う音が自分たちの間で鳴り響く。野外のアスファルトのフィールドで、兄弟は互いに刀を振るう。こんな場所はあの時を思い出す、嫌でも。大事だった、大切だった、守りたかった仲間が死んだのも、こんな場所だった。この男は敢えてここにいたに違いない。この場所ならば弟が本気で自分を殺しにかかると踏んでのこと。手加減なしで殺し合うことが出来る場所。もしかしたら男は、シキという名の兄は、いつかこんな日が来ることを望んでいたのかもしれない。

 鋭い金属音が鳴り響く、何度目かの打ち合い。

 日本刀というものは、これだけ重いものだったと初めて知った。いつも彼が、兄が雑魚を容易く斬る武器であり、昔からこれしか使わない理由が、少しは理解できた気がした。扱いには慣れが必要だが、その殺傷力は群を抜いている。自分のスティレットのように、わざわざ急所など狙わなくとも、ただ首を落とせば殺せる。突きの他にも斬る事も出来るし、刃の部分以外でも応用が可能だ。

「くッ!」

 何十回目かの重い一撃を、やっとのことで受け流す。癪だが、今はこうする他に対処法が思いつかない。既に数か所を軽く斬られており、切り傷はあちこちに出来ていた。だが、致命傷とは程遠い。いつもの通りのただの遊び程度。安く見られたものだが、実際に追い詰めるだけの手段が思いつかないのだから、それも仕方がないのかもしれない。だからといって、絶対に引くわけにはいかない。

 先ほどから降り始めた雨は、勢いを増してきた。無音だったフィールドに静かな水滴がたまり、髪や顔を濡らし始める。少しでも重いのは不利になるかもしれないが、それは相手も同じことだし、自分以上に服装からして相手の方が不利になる。アキラとの戦いの際に負った傷――左足がジンジン痛む。だが、それでいい。

 相手――自分が倒すべき宿敵も手負いだ。互いに手負い。だからこそ、たとえ血の繋がった兄弟だろうが本気で殺し合うことが出来る。男もそう考えているに違いない。

 なにしろ、兄弟なのだから。

「……以前より幾分かは見られる動きになった」

 この男――兄が自分を褒めるなど珍しい。リンは防戦一方で、自分ばかり一方的に傷が増えていくこの状況を打破する手段を考える。それでも、一向に考えがまとまらない。いつもと獲物が違うし、その熟練度も桁違い。何より小柄なリンでは自在に振り回す事すら難しい。その点でも不利は否めない上に、執着の理由である仲間に関連する場所での戦いは、精神面でも大いにリンを追い詰める。脳裏に仲間の最期の顔が浮かび上がる。……その中でも特に鮮明なのが、やはりカズイの顔だった。

「……」

 無言で頭を振って、彼はもういないのだと自分に言い聞かせる。薄情だが、今はアキラがいる。それに、この男に勝ちたい理由の一つは彼らの仇討ちのためだ。その目的さえ果たせるのならば、地獄でいくらでも責められよう。

 この男と、多分最期になる対面をして、自分でも自覚のある欠点を指摘された。

『感情的になりやすいのはお前の欠点だ』

 ……よく当たっている、憎らしいほどに的確だ。

 仲間――ペスカ・コシカの皆が死んだのは自分のせいだ。あの時、数年ぶりに再会したこの男の口車にあっさり乗った自分が、あまりにも愚かだった。いくら憧れていたからといっても、あの時の兄は既に雇われていた。あくまでも『仕事』で自分に会いに来たのだ。……調子に乗る若者の粛清のために、その若者を斬るためだけに。だからこそリン自身考えもしなかった話題――星が見える場所について訊いてきたのだ。昔から兄は純粋に強いだけではなく、そのように狡猾でもあったのだ。そのことに気づいたのは大事なモノを失った後だった。気づくのにはあまりにも遅すぎた。

 この男は肉親の情など欠片も持ち合わせていないに違いない。だからこそ、昔から、リンが大事にしていたもの、大切だと思ったもの、失いたくないと思ったもの、それら全てを奪ってきた。

「……アンタに褒められても気分が悪くなるだけだ」

 そう呟きながら、渾身の一撃を加えたつもりでも、相手はそれをいとも容易くかわし、逆に背中に一太刀入れてくる。刃を逆にしたのは、この男なりの遊びなのだろう。

「ぐはぁッ!」

 背中を鈍痛が襲う。硬いもので力一杯に叩かれたような感覚。露出している肌に傷はつけるつもりのようだが、やはり本気を出す気配がない。このままではいつも通りどころか、一方的に嬲られて終わり。そんなのはご免だ。リンには負けられない、否、勝たなければならない理由がある。

「所詮お前はその程度だ。俺に勝とうなどと、思い上がりも甚だしい」

 リンが痛みに顔をしかめているのを見て、男――シキは既にリンへの興味を無くしたようだった。無感動に無表情。その態度が、言葉が、いちいち癇に障る。

 感情的になりやすいのが欠点だと指摘されても、これは元からの性格だ。昔からこうだったし、今更簡単に変えられるわけがない。

 信条をずっと曲げずに貫いてきた。どんな状況だろうが、ずっと。だからこそ、譲れない、譲りたくない。

 武器が愛用のスティレットではなくて、初めて手にする日本刀でも、リンの信条、やるべきこと、守るべき約束。その三つは変わらない。変えてはならない。

 シキはリンへの興味を失い、涼しい顔で背を向ける。

 そこから窺えるのは、絶対的な自分への自信。今この瞬間に背中から斬りかかったとしても、自分のような弱者――愚弟など赤子の手を捻るように殺せる。そのことは知っていたし、身を持って実感した事も何度もある。

 それだけの実力があるからこその、絶対的で、不変の自信。

 そんな『兄』だからこそ、リンは幼い頃から彼に憧れ、彼を尊敬し、彼を目標に、彼を慕い、彼のように……。

「待てよ」

 リンの苦し紛れにひねり出した硬い声に、兄は振り返る。興味がわいたような眼をして。いつもの冷淡な紅い瞳は、今や冷めたのかと思いきや、圧倒的に不利なこの状況でも諦めない『弟』に、興味を持ったよう。

「……負け狗が。まだやるつもりか?」

「当たり前だ」

「仕方がない。手のかかる愚弟を持つと大変だ」

 そんな事を言いつつも、徹底的に自分に刃向う者はこのトシマでも片手で数えられるほどしかいない。だからこその興味、もしくは、実はあったのかもしれない弟への愛情かもしれなかった。

 ――そんなもん、死んでもいらねぇ。

「……そろそろ死にたくなったのか?それならば望みの方法で葬ってやる」

「そんなわけがないだろ」

 左足は、この男らしいことにわざと狙わなかったに違いない。敢えて急所を外すが、動きを奪うような攻撃。舐められている、徹底的に。それはリンにとって何よりも耐えがたいことであり、許せないこと。Bl@sterでも、舐められないためならば仲間が止めようとも平然と敵の手足を再起不能にしたり、それ以上の事も躊躇いなくやった。だからこそのカリスマチームと言われ、尊敬と畏怖の念を持ってつけられた異名が『コート』だった。

 シキの持つ日本刀の動きは、イグラに熱中するライン中毒者を斬る時とは全く違う。明らかにリンを『特別扱い』だ。

 リンは痛む左足を引きずり、シキに迫る。兄弟なのに、身長も体格も違いすぎる。それでもラインを嫌う性格だけは兄弟らしく似ているのではないかとは思う。ただ一つの兄弟らしい共通点はその程度しか思い浮かばない。

「ならば、どんなわけだ?」

 シキは日本刀を持つ手を緩めている。その間に、一歩でもこの男との距離を埋める。得意のスピードを生かした攻撃は、今は不可能だ。そもそも日本刀は速さなどは関係のない武器ではないだろうか。純粋な『力』、純粋な『技量』、純粋な『経験』、それらの要素で戦う獲物ではないだろうか。……ならば正面からぶつかるしかない。

 今自由に動かせるのは、痛む両腕のみ。鋭い針で一度に刺すような痛み、笑い出してしまいそうな痛み、一歩間違えば気が狂うような、いっそ斬りおとしてしまった方が楽なのかと思うような痛み。それでも、まだ日本刀は持てる。それとは質の違う切り裂かれるような痛みからして、脇腹の辺りも刺されたのかもしれない。全身が痛みで悲鳴を上げている。

 それでも、リンには引けない、譲れない理由がある。きっとそれは、この兄には理解不能だろう。

「俺はアイツらの仇を取ってやりたい。それが、今の俺に出来る唯一の償いであり、けじめだ」

「くだらん。そんな情などに惑わされるからお前は弱い」

「……それと、約束したんだ。アンタを倒して、必ずここから出て、『追いかける』って」

「それも弱者がよく吠える戯言だ。お前のような愚弟と片腹だけでも血が繋がっている事が俺の屈辱だ」

 シキは日本刀を握った。反射的に、リンもまた日本刀を握る手に力を込める。そろそろ潮時だ。それは自分はもちろん、目の前の大した傷を負っていない兄も同じ気持ちだろう。ただし、彼の場合は面倒になったという意味でだろうが。

 叩かれたばかりの背中は、まだ痛む。しかし、耐えられないわけがない。この程度の痛みなど可愛いものだ。切れた唇の端を歪めて笑う。

 ――アイツらの痛みはこんなもんじゃなかったはずだ。

 リンはやっとのことで、左足に力を込める。

 いつもは上から飛びかかるのに、正面からの日本刀での斬り合い。初めて使用する日本刀、先ほどよりも勢いを増した雨、化膿する左足、敵以上に明らかに手負い。

 どうしても不利は否めない。それでも、リンには負けられない、負けてはいけない理由がある。自分なりのやり方でのけじめと約束。これはリンが自ら背負うと決めたもの。自分で決めたことは守るのが当たり前だ。信条を曲げないのも、感情的になりやすい性格を改める気がないのも、リンが自分からそうしているから。

「うぉぉぉぉぉ!」

 渾身の力で、シキの左腕を狙う、斬りおとしてやるつもりで。当然軽くいなされるかと思っていたその一撃は、らしくもないシキの防御の失敗により、届いた。傷の深さこそ浅いが、これまでに一度もなかった事だ。それでもシキは動かずに、ただ片眉だけが動いた。まるでこれ以上の痛みを知っているかのように。だが、そんな事情などリンは知らない。

「うそ……」

 自分でも奇跡としか思えない。いくらシキが手負いでも、自分の方が圧倒的に重傷だ。それなのに……届いた?驚きを隠せないでいるリンの隙を見逃すような兄ではない。……そんな彼の事は、他でもないリンが一番よく知っていた。

 何しろ、昔は憧れていたのだから。

「何度も言っているだろう?お前は感情的になりやすいのが欠点だと」

 首筋に冷たい刃先が当たっていた時には、既に首の薄皮が切れて、少量の血が出ていた。やはり舐められている。目の前で勝利を確信する兄。だが、これこそがリンの狙い。

「あぁ、解ってるよ、嫌というほどな」

 リンは日本刀を容赦なく彼の右足に突き刺す。接近していたため、狙いを外す事などない。シキは若干驚きはしたものの、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。自分とは違い、脂汗一つかかないところは相変わらず、認めたくはないが強い。

 リンは相手の右足に、シキは相手の首筋に。

 腹違いの兄弟ふたりは互いに相手を見やる。向かい合わせで見る互いの顔は、兄弟だというのに初めて見るような錯覚を引き起こした。顔立ちで共通しているのは目元くらいのものだ。

「……」

「……」

 互いに手負い、互いに動けない。どちらが先に動くかで勝負は決まる。だが、やはり不利なのは首筋という重大な急所を握られているリンの方だ。そのことは互いによく解っている。急所の情報云々ではない。ただ単に……兄弟だから。

「……一つ訊こう」

「何?」

「なぜ俺の首筋を狙わなかった?」

「俺の『信条』、アンタにはあの時に話したはずだけど?」

「成程」

『やると決めたら徹底的にやる。やられたら倍にしてやり返す。それが、俺らの信条だ!』

 あの時の、無邪気な自分自身の声が脳裏に蘇る。

 ――反吐が出る。他の誰でもない、俺自身に。

 リンはずっと自分を許せないで生きてきた。仲間が死んだのは自分のせいなのに、のうのうと生き延びて、仇も討てない。そんな情けない自分を、昔の仲間が見たら、きっと嗤うに違いない。無意識のうちに唇をかみしめていて、気づいた時には鉄の味を感じていた。唇は赤く染まっているのだろうとだけ思った。それが男の眼の色と同じだという事が更に癇に障る。

「俺を同じ目に遭わせたい、といったところか?」

「見損なうな。俺はアンタとは違う。俺は正面から潰していく主義だ。言ったはずだ、『生温い手は使わない』って」

「つまり、俺に更なる苦痛を与えたい?お前も俺と変わらない。やはり『兄弟』だ」

「……」

 リンは無言でシキの右足に刺さった自分の使っている日本刀を引き抜く。返り血がべっとりと付着した、自分たち兄弟と同じ、『兄弟刀』。

 そのもう一方は、未だにリンの首筋の薄皮を斬っている。

「どうした?攻撃しないのか?」

 いつでも殺せるという、いつもの挑発。

「……」

 黙っていると、少々まずいくらいの血が、首から吹き出す。シキがわずかに日本刀を動かした証拠だ。リンはまだそのタイミングではないと、敢えて日本刀を自由に動かせるようにしている。

「なぜ、攻撃しない?」

 シキが心底不思議そうに問う。このままでは無抵抗に殺される。そんな簡単なことも理解できないほどに愚かなのかと言いたいのだろう。そう言われるのも想定内だ。なにしろ、昔から尊敬して、覚えている限りでは誰よりも傍で彼を見ていたから。そしてリンはある程度開いた距離からわざと一息で後ずさる。左足が今後使えなくなろうとも、そんな事はどうでも良かった。その覚悟はとうにできている。でなければここには来ない。

「この隙を待ってたんだよ、『兄貴』!」

 リンは自由になっている、自分が使っている日本刀を迷う事なく、正確に、心臓の位置を狙って刺した。いつもの戦法、スピード重視で急所を的確につくバトルスタイルだから自然と位置はつかめる。近くから距離を取るという遠回しな戦法で、不意を突き、それでいて的確にしとめる。コート、『雄猫』の異名は伊達ではない。

「『いつも相手を見下してばかり』……これがアンタの欠点だ!」

 更に深く刃を沈めると、眼前の兄も流石に呻き声を上げる。しかし、彼らしいことにその声は本当に微かで、リンの耳には届かない。

「……」

 自分の最期を悟ったのか、死にゆくであろう宿敵――シキ、兄、イル・レ……それらの名を持つ男は静かに日本刀を振り回した。リンにはその意図が読めていたが、敢えて避けない。

 『弟』なりの、『兄』へのせめてもの餞別のつもりだ。

 ――いくら憎んでも、怨んでも、かつては尊敬したアンタだから。

 だから、黙って左足の切断を許した。当然、身を斬るような、切断の激痛が走る。病院で麻酔の効いた手術を受けた事もあったが、その時も痛かった。もちろん今はその数十倍の痛みだ。弱っているため、その速度もゆっくりだ。それが逆に痛みを引き延ばす原因だ。

「……」

 それでもリンは歯を食いしばり、顔をしかめながらもその痛みに耐える。声一つ漏らすまいと、ひたすらに耐える。こんな痛みでいちいち喚いていては、まだこの男に勝利した事にはならない。唇は噛み切れて、下手をすれば舌まで噛んでしまいかねない。

 やっとシキが息絶えた頃には、左足は完全にリンの腿から切断されていた。もう笑うしかないとも思ったが、ここで笑う必要はない。いや、笑うのならば勝利の笑みが相応しい。

「これは、せめて形見として取っといてやるよ」

 リンは出血が激しい身体全体と切断したばかりの左足を庇って、本当にゆっくりと、死闘を繰り広げたアスファルトのフィールドを後にした。

 今度こそ、失わないために。

 『約束』を守るために。

 傷だらけだが、そのリンの心は、これまでにないほどに晴れやかだった。
 降り続いていた雨がやっと晴れた、今のトシマの大空のように。



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